【御巣鷹の尾根、日航機墜落の謎】 - 『坂本九ら乗客乗員の最期』
- 2014/08/15
- 16:08

1ケ月程前、栗山町にある坂本九記念館に立ち寄った。
札幌から東に40Km程の所にある。
近くの温泉に行く途中の道すがら、気まぐれで寄った。
九ちゃんは子供の頃テレビで『夢であいましょう』を毎週のように見ていて、その頃からのファンだった。
『上を向いて歩こう』はこの番組で生まれた。
そういえば、九ちゃんは日航機事故で亡くなったんだよなと、そこで改めて思い出した。
羽田発大阪行きの日航機123便墜落事故は1985年8月12日に起きた。
540名が死亡して、4名が助かった。
死者数は日本国内で発生した航空機事故では2014年8月現在の時点で最多であり、単独機の航空事故では世界でも最多である。
テレビで速報が出て、その後ずうっと実況中継されていたので29年前のことだが、よく覚えている。
数日前、テレビでこの事故の番組が放送されていた。
これも、たまたま観た。
事故の起こった8月12日の記念番組だったのだろう。
その中で『日航ジャンボ機墜落事故の疑惑』とか『御巣鷹山、日航機123便の真実』といった内容の本が何冊も出版されていることを知った。
あの事故は後部圧力隔壁の修理ミスが原因で、それが飛行中に破損し、尾翼が吹き飛んだことから起こったとされていた。
それは確定したものと思っていたので意外に思った。
なんで今更『疑惑』とか『真実』なのか?
そこで、この事故の事を調べてみると、不思議な事がいっぱい出てきた。
最初に疑問に思ったのは、救援に出た自衛官が射殺されたという報道があったということだ。
これはNHKニュースの速報テロップで放送されたという。
内容は『20:00上野村三岐(さんぎ)待機自衛隊一群到着。待機命令に反して怪我人救助を急いだ自衛隊員1人射殺』というものだったという。
なんで救援に行った自衛隊員が射殺されなければいけないのか訳が分からない。
多少先走ったとしてもである。
それに、自然災害時でもそうだが、こういった場合自衛隊は銃を携帯しないはずである。
それがなぜ?
そういえば、29年前の事故発生時にも不思議に感じたことを思い出した。
事故現場を中々発見出来なかったのである。
事故機が連絡を絶ったのは12日午後6時56分であった。
そして、事故機が発見されたのは13日午前5時37分とされる。
なんと事故が起きてから発見まで約半日も要したのである。
夜間ということもあったのだろうが、13日の朝にヘリから実況された現場ではまだ煙が立ち昇っていた。
ということは、夜間は炎が上がっていたことになる。
上空から見れば一目瞭然だったはずだろう。
それがなぜ?
もう少し調べていくと当時米兵だった人の証言というのが出てきた。
この方はマイケル・アントヌッチ氏といって横田基地に配属され輸送機の航法士(ナビゲーター)をしていたそうである。
1982年から90年まで米空軍に在籍していた
輸送機(C130)で沖縄の嘉手納基地から横田基地へ帰還中、米軍横田基地から日航123便機の墜落現場を捜索するように指示が出たそうである。
以下その証言。
『当時、私は横田基地の空軍中尉だった。
当日8月12日の午後6時30分ころ、我々は沖縄から横田に向け飛行中、大島上空にさしかかった。
われわれは最初、日航123便の機長が管制塔に緊急事態を宣言したときには、さして気にもしていなかった。
(なぜなら)軍では、緊急事態を宣言し、エンジンを止めて平穏無事に着陸することはよくあることだから。
しかし、6時40分ころ、再度、日航機長の声を聞いた。
その声は非常に動揺しており、管制とのやりとりは、航空の標準語である英語ではなく日本語だった。
こんなことは、几帳面な東京管制官の通常の離陸管制では考えられないほど異常なことだった。・・・・・
123便の緊急事態は相当に深刻で、目的地に到着できそうになかった。
だから、めったにないことだが、当該乗員は米軍基地への着陸を希望したのだった。
横田管制は123便と交信しようとしていたが駄目だった。・・・・・
ちょうど7時過ぎに123便がレーダーから消えたと、(横田基地から)伝えてきた。
そして123便を捜索できないかと聞いてきた。
われわれは、あと2時間は飛べる燃料を持っていたので機首を北に向け、捜索に向かった。・・・・・
午後7時15分、航空機関士が1万フィート付近で雲の下に煙のようなものが見えるのを発見したので、ゆっくり左に旋回し、そちらへ方向を向けた。
墜落機残骸を発見したのは、あたりはだんだんと暗くなり始めていた時だった。
山の斜面は大規模な森林火災となり、黒煙が上がり、空を覆っていた。
時刻は7時20分だった。・・・・・・・
事故現場から横田までの緯度、経度、方向と距離を(横田基地に)連絡した。
横田管制から、我々の現在地から約40マイルの厚木基地(座間基地の間違いと後に判明)から、米海兵隊が救難に向かう準備をしてることを聞いた。
1時間で到着できただろう。・・・・・
8時50分までに救援ヘリのライトを視認できた。
ヘリは偵察のため降下中だった。・・・・・
午後9時5分に、煙と炎がひどくてとても着陸できないと海兵隊が連絡してきた。
位置を少し移動して、二人の乗員をホイスト(ウインチで吊り下げ)で地上に降ろすつもりでいた。
われわれに、司令部に連絡してくれと頼んできた。
私が司令部に連絡を取った。
将校は「直ちに基地へ帰還せよ。日本側が向かっている。」といったので「司令部、海兵隊は救助続行を希望している。」といったが、「繰り返す。即刻、基地に帰還せよ。海兵隊も同様。」と命令された。
私は「了解。基地に帰還する。」と応答した。
われわれの到着から2時間経過した午後9時20分に、最初の日本の飛行機が現れた。
管制から日本の救難機だとの知らせを受けた。
日本側が現場に到着したことで、安心してその場を引き上げた。・・・・・・
横田基地に引き返し、着陸後直ちに司令部に報告するように指令を受けた。
我々を待っていたのは、第861戦術飛行隊副司令官、ジョエル・シルズ大佐であった。
グリフィン機長が経過を簡単に報告した後、大佐は「ご苦労だった。今回のことについてマスコミには一切他言無用。」といった。
翌日のニュースや新聞を見て、われわれは愕然とした。
日本の捜索隊が墜落地点を発見するのが、いかに困難をきわめたかを伝える報道で溢れていた。
事実、まだ事故機残骸に到着していなかった。・・・・・
(我々は)日本の救難機が墜落現場上空に到着して旋回しているのを確認した後に、帰還したのだから。・・・・・・
「ニューズウィーク」誌によると、日本の当局は、捜索開始命令が午後9時30分まで出されなかった、と述べている。
(しかし)その時刻はわれわれが墜落地点を確認した2時間後だった。
最初の日本のヘリコプターが現場にやっと到着したのは、翌日の午前4時40分(これは6回にも及ぶ誤報の一つで、実際は5時37分)だった。
7時15分になって日本の捜索隊は、警察(自衛隊の間違い)のレンジャー部隊をヘリコプターで吊り下ろすことを決断した。
海兵隊のヘリコプターが同じことをやろうとして許可されなかったときから、11時間もたってのことだった。・・・・・
1987年3月、私は横田基地を離れ、サクラメントのマザー空軍基地で航法教育に携わる大尉として着任したが、そのとき、空軍表彰メダルを授与された。
そこにはこう書いてある。
「アントヌッチ大尉とその乗務員は、日航機の捜索を決定し、直ちに捜索計画をたて、墜落現場を発見し、救助隊を現地に誘導した。」・・・・』
とても不思議な話である。
米軍が日本側に事故現場を引き継いだとされるのは、12日午後9時20分。
ところが、長野県警・管区機動隊が事故現場を発見したと発表した日時は13日午前5時37分。
自衛隊による5回に及ぶ誤報の後で、御丁寧にもその後にも1回誤報が流されている。
引き継ぎから8時間17分後である。
この証言は1995年8月27日『スターズ・アンド・ストライプス』(星条旗)紙の一面にて報道されたという。
この新聞は退役を含めた米国軍関係者向けの新聞の内、最大の発行部数を誇るものだという。
決していい加減な新聞ではない。
またこの日航機捜索の件で米軍から表彰メダルを授与されている。
私はかなり信憑性は高いと思う。
また、この証言は1995年9月28日号週刊文春にも掲載されている。
以上は米軍に所属する方の証言だが、日本人でも事故現場が発見されたとされる時間前に現場に到達した二人の地元民間人がいた。
以下その内の一人の方の証言。
『事故の速報を知ったのが、12日夕方の7時過ぎ頃だったと思います。・・・
たまたま高校時代の友人2名と一緒だったので、事故現場に行ってみようということになりました。
まだ、若かったですから、その時はただ、何としても現場に1番乗りしてやるぞ、インタビューされてテレビに映ってやるぞ、ぐらいの本当に軽い気持ちしかありませんでした。
オフロードバイクにまたがり、友人2人(それぞれオフロードとオンロードバイクを使用)と共に南相木村(みなみあいきむら)に向けて出発し、おそらく21時頃までには南相木村からの林道に入っていたと思います。
ただし、オンロードバイクの友人は途中でこの行程から抜け、林道から先を進んだのは、オフロードにのったボクたち2人だけです。
上空で戦闘機が、それもおそらく2機がぐるぐる旋回している音がしてましたから、墜落現場はその(旋回)音の中心付近だなとすぐに分かりました。
そこで、バイクで可能な限り近くの林道を進んで、そこから先は徒歩で山に入ることにしました。
あの辺の山の持ち主(の息子)とか知ってますし、一緒に山に入って遊んでましたから、どんなところかは大体わかっていました。
(しかし)直線距離でわずか7~8キロの行程なのに、山に入ってから現場に着くまで6~7時間くらいかかりました。
着いたのは、午前4時前後だったはずです。
着いた時に山の尾根付近が白み始めていたので、おそらくそれぐらいの時間だと思いました。
(事故現場では)既に自衛隊員が7~80人、いや100人位は来ていました。
それを見て、自分たちは一番乗りできなかったと思いましたね。
同時に、事故犠牲者の呻き声が谷にこだまし、響き渡っているのがはっきりと聴こえました。
全部を数えた訳ではありませんが、声の響き方からすると少なくても4~50人は居たと思います。
実際に、苦しそうに声をあげている人を私も間近で何人か見ています。
自衛隊の人たちがいる以上、自分たちができることは、負傷者のいる場所を教え、早く救助してもらうことだと思い、呻き声のするあたりを探しては、その場所を隊員さんに伝え、早い手当を頼んでいました。
ただ、隊員さんの対応には不信感を覚えましたね。
「へたに動かすと危険なので、後から来る部隊が手当することになっている。」と言うだけで、何もしようとしない。
手にした4~50cm 位の丸いバッグに、地面から拾った物を黙々と入れ続けている。
まだ暗くてよく見えなかったので、それが何かまではわかりませんでした。
ボイスレコーダーとか、何か貴重な物なんだろうと思っていました。
私が覚えている隊員さんの装備は、バッグの他に、片手に抜き身の大型アーミーナイフ、目には暗視ゴーグル、また、靴はつま先の短い短靴を履いており、傾斜のきついこの山のことをよく調べて入っているなと思いました。
ちょっとひどいなと思ったのは、斜面を登り、尾根の反対側に出たら、向こうの谷ではヘリコプターがホバリングしているじゃないですか、ヘリが来ているならさっさと救助しろよと思いましたね。
しかも、ヘリの下では、さっき隊員さんたちが何かを入れていたバックを10数個まとめ、ネットに入れて吊り上げていました。
何度も吊り上げていたので、全部で70個くらいのバッグが回収されたと思います。
到着してから1時間後くらいに、自衛隊の次の部隊が続々と到着してきました。
また、暗視スコープを装着していた最初の部隊も引き上げる体制に移っていたので、もうこれで大丈夫と思い、この時に下山を始めました。
なお、次の部隊は、山で歩きにくいブーツ姿だったので、これでちゃんと歩けるのかな?と思いました。
・・・ずっと不思議に思っていたのですが、下山を開始する朝の5時過ぎ頃には、谷の呻き声がピタリと止んでいました。
ボクが見た負傷者の中に、指先が1本ちぎれただけの男の人がいました。
「この程度なら死ぬことはないな。」と思い、救助活動(隊員への声かけ)を後回しにしたのをはっきりと覚えています。
あの人がどうなったのか、ボクにも分かりません。・・・・』
この証言が本当だとすると、暗視ゴーグルに大型アーミーナイフを装備し山用のつま先の短い短靴を履いた、100名にも及ぶ特殊部隊と思われる自衛隊員がまず事故現場に到達していたことになる。
それも事故現場が発見されたという、13日午前5時37分以前の段階で。
そして、犠牲者を救助することなく、何かを回収していた。
また、証言者が到着した4時頃の時点ではまだ4~50名の生存者がいた。
それが、証言者が下山を開始する朝の5時過ぎ頃には、谷の呻き声がピタリと止んでいたという。
後に生存者となった4名はまだ発見されていなかったのだろうか。
一体現場では何が起こっていたのだろう?
また生存者4名の中の一人『落合由美』さんのこのような証言もある。
『風をすごく感じたのです。
木の屑やワラのようなものが、バーッと飛んできて、顔にあたるのを感じました。
はっと気がついたら、ヘリコプターの音がすぐそばで聞こえる。
何も見えません。
でも、あかるい光が目の前にあふれていました。
朝の光ではなくて、もっとあかるい光です。
すぐ近くで「手を振ってくれ」だったか「手をあげてくれ」という声が聞こえたのです。
だれかを救出している声なのか、呼びかけている声なのか、わかりません。
私は右手を伸ばして、振りました。
「もういい、もういい」「すぐ行くから」と言われました。
そのすぐあとで、私は意識を失ったようです。
朦朧としながら、ああ、助かったな、助かったんだ、とぼんやり考えていました。』
この証言からすると、夜中の暗い中、ヘリコプターのサーチライトで捜索が行われていたようである。
落合由美さんが実際に発見されたとされ、救出されたのは日が昇ってからである。
なぜ夜間の事は隠されたのだろうか?
最後にある自衛隊員の証言
まだ運輸省航空事故調査委員会による事故調査報告書の発表がある前の証言である。
飲んだ席で友人にうっかり話してしまったようだ。
『・・・いずれは分かると思うんだけど、123便の事故は、本当は○○隊が墜落させたんだよ。
当時訓練で標的機を飛ばしていて、それが操縦不能になって、行方が分からなくなり、そのとき近くを飛んでいた123便にぶつかったんだ。
墜落現場には標的機のオレンジ色の残骸があったから、誰もいないうちにヘリで回収したんだ。・・・』
この証言が本当だとすると、その標的機というものが、日航機に突き刺さったまま墜落したことになる。
またこれは、標的機が日航機に衝突したという確実な物証となる。
そのため墜落現場を未発見ということにして、その間に自衛隊により証拠隠滅が図られていたとしたら、今まで記述してきた証言の説明が付く。
勿論これは自衛隊単独で行えるものではない。
当時の国家権力のトップの決断によるものだろう。
そのトップがこう言ったのかもしれない。
『この事は【何としても】表に出してはいけない!』
国家の最高権力者がそう決断すると、どこまでのことが出来るものなのだろうか?
そして許されるものなのだろうか?
議員内閣制とはそういったものだろうか?
その時の内閣総理大臣は中曽根 康弘。
終戦時、職業軍人であった。

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