札幌の我家の周辺に雪虫が飛び始め、そして本物の雪もちらついてきた。
数日前テイネの山を見上げると、スキーコースが白くなっていた。
そうなると、屋根裏部屋からスキーを下してこようかとソワソワしてくる。
そして、またスキーについて考え始める。
そこに新しいスキー教程が出たので購入した。
日本スキー教程2015年版である。
まず、教程の内容を読まずに、DVDを見た。
DVDの解説の音声もなぜか、取りあえず聞きたくなかったので音は消した。
映像だけを見た。
なぜ内容を読まなかったのか、なぜ消音にしたのか、自分でもよく分からなかった。
そこで、どうして自分がそうしたかったのか見終わってから考えてみた。
そして思い当った。
自分は先入観のない、裸の自分の感性でこの新しい教程を捉えたかったのだ。
スキーには様々な理論という理屈付けがなされる。
その理屈を先に聞いてしまうと、その道筋でスキーの滑りを見てしまう。
逆に言うと、その理屈でしかスキーの滑りが見えなくなる。
それが自分は嫌だったという事に気付いたのだ。
もっとも、そのようにスキーの滑りを見るのを、『評価眼がある』ということになるのかもしれない。
最近までSAJ(全日本スキー連盟)のスキー理論を引っ張ってきた市野聖治先生が、現在様々な批判にさらされているようである。
ネットを覗くと、溢れかえっている。
私はこれに関して、チョット違うのではないかなと思っている。
実は私は40年程前に市野先生のスキー講習を受けたことがあった。
これは全くたまたまだったのだが、学校の単位取得のためのスキー講習を受けた。
3泊4日くらいの日程だったの思う。
その時の講師が確か市野先生だったと思う。
市野氏は無名の一スキー教師だった。
でも、40年も経っても覚えているのだから、やはり何か印象深いものがあったのだろう。
市野先生はその時から内足の重要性を強調されていた。
これが、内足主導となっていったのだろう。
また、どんな斜度の斜面でも、その斜面に垂直に体軸をもっていけば、斜面は同じような平面となるといったこともおっしゃっていたと思う。
これが後の水平面理論につながっていったのだろう。
市野氏はこのようなことを、私が講習を受けた少なくとも40年程前から考えられていた。
勿論それからも大きな理論的発展がある。
しかしそれは、世間で言われているように、全くオリジナルといったわけではなかったのではないか、と私は思っている。
以前、私はドイツのスキー理論ということで、ミュンスター大学教授のゲオルグ・カッサート氏のスキー理論を御紹介したことがあった。
実はこれは日本スキー学会誌からの抜粋であった。
2004年8月版の第14巻である。
これはあくまで私の推察なのだが、市野氏はこの論文を読み、影響を受けたのではないかと思う。
この理論では横方向への身体の動きや操作といったことが重視されている。
その結果として表題となっているように、『The Slope turns the Skis ! (
斜面がスキーを回している)』といったことになる。
市野理論には『谷廻りの重視』とか『山側に落ちる』といった考え方があった。
これはサッカート理論からの影響だと思う。
そしてそれが、『自然で楽なスキー』ということにつながる。
人によっては『日本スキー界の失われた10年』といったような言い方をされる方もいるが、まさに市野理論が日本スキー界に流布され始めた時期と、この日本スキー学会誌の発刊が重なる。
しかし私は市野先生を非難しようとは思わない。
市野氏はスキー技術に関して、日本スキー界に一つのアイデアを提供しただけなのだから。
市野先生御自身も、私も参加したここ数年前の講習会で、これは一つのアイデアに過ぎないといった主旨の発言をされていた。
そもそも、SAJのスキー界に対する役割とは何だろうか?
それはスキーヤーが楽しくスキーを滑れる技術を伝えるということであろう。
それを分かりやすく言い換えると『スキーヤー個々が自分の滑りたいスピードで、自分の滑りたいコースを自在に滑れる。』といったことになると思う。
一般スキーヤーの望んでいることは当然それぞれ違う。
ある人はスピードを出してガンガン滑りたいが、ある人はエレガントにのんびり滑りたい。
またある人はバックカントリーを粉雪にまみれて滑りたいし、またある人はコブの斜面に挑戦したい。
人それぞれなのだ。
また、性別や年齢といったことによって身体能力もバラバラである。
従って基本的にスキー技術はスキーヤーの数だけなければならない。
これをまず原則として押えなければならない。
しかしその数だけ技術体系をつくる事は不可能である。
そこで『基礎』スキーという考え方がでてくる。
つまり、技術のベースとなるものがあるのではないか、という思想である。
それはある意味正しいであろう。
そして、初心者にプルークやシュテムや横滑りを伝えるということになる。
ところが、これらを伝えるにあたり『要領』がある。
欧米ではこれを『tip』といった言葉を使う。
日本語にニュアンスを含め、再度訳せば『コツ』といったことになる。
何を意識すれば、その動きが出来やすいかということである。
ところが、日本ではどうもこの『要領』が違う方向を向く。
詳細な『技術要領』となる。
身体の向きはどうか?荷重配分はどうか?体軸の傾きはどうか?脚の前後差や開き幅はどうか?目線はどうか?ストックワークはどうか?と細かく『技術要領』が決められチェックされる。
多分これは日本スキー界へのスキー技術の導入といった歴史が、外国からなされたことに由来するのだろう。
それも一番最初の組織的な導入は、軍隊によって行われた。
命令系統の中でスキー技術が導入されたわけである。
そこではヨーロッパの『雛形』を真似し、それを『正しい』ものとした。
理由の説明はない。
命令があるだけである。
これはスキー導入から100年も経つというのに、未だにそこから抜け出せていない。
そして、日本独自でスキー教程を作り始めても、その基本的な思想は受け継がれた。
作られた『雛形』を『正しい』ものとする。
そこで面白い現象が起きる。
例えばあるワールドカップ上位選手を評価して、教程と違うと『ヘタ』ということになる。
世界の基準では規制されたコースをより速く滑ってくる者を『ウマイ』としている。
この基準は1905年に近代アルペンスキーの祖である、マチアス・ツダルスキーによって提案されたものである。
この基準は100年以上たった今でも、世界中の人々により支持されている。
なぜなら、これ以外に多くの人を納得させる、適切な評価基準がないからだ。
そこで価値の逆転現象が起こる。
『ヘタ』という言い方をしなくとも『求められているものと違う』といった言い方になる。
つまり結局は価値がないということである。
それではいったい『誰が求めて』いるのか?
それはSAJ教育本部ということになる。
先程述べたように、技術の価値というのは個々のスキーヤーの望みを実現するものだと思う。
一般スキーにおいては、その技術の価値を決めるのはそれぞれのスキーヤーなのだ。
最近は大学でも教授や講師の採点を実際に授業を受ける学生がするということが行われる。
誰がその価値を決めるのか?
学生なのである。
学生にとり、自身の進歩をより効果的に導く講義をする人が、より価値があるのだ。
これをスキーに置き換えると、自分の望むように滑れるようになるような効果のある講習をしたスキー教師に価値があるのだ。
4年おきに世界のスキー教師が集まって、インタースキーというものが開催されているが、それは今いったような受講者のニーズをどのように達成するかという研究目的で開催されている。
誰が、あるいはどこの国が一番『ウマイ』か、とは本来関係のない世界なのである。
日本の現在の現実は、どのように滑るかといった『雛形』をスキー教師が受講者に押し付け、それを価値あるものとする。
ニーズの逆転現象が起きている。
もし級といったグレードや技術選といった制度を生かしたいのなら、もっとスキー技術の本質的なものを基準にすべきであろう。
それはリズムでありスムーズさであり、タイミングでありリラックスであり、余裕や安定性といったことになる。
独創性などといったものも入ると面白い。
ここで市野氏批判に話を戻す。
私は市野氏の技術理論をトータル的に受け入れているわけではない。
しかし繰り返しになるが、市野氏は一つのアイデアを日本スキー界に提示したに過ぎないのだ。
それを雛形として固定化し、価値あるものとしたのはSAJであり、個々のSAJ会員でありスキーヤーなのではないだろうか?
そもそも『雛形』を価値あるものとする事自体が間違っていると私は思う。
またそれを組織として価値あるものとするのもおかしい。
もし、グレード゙や資格制度のために固定された『雛形』を必要とするなら、それは本末転倒であろう。
私から見れば、市野先生もその価値観の伝統に巻き込まれたと思う。
市野氏を始め日本スキー界全体が『雛形』を作り出し、その形に自分をあるいは人をはめ込んでいくという方法論から抜け出せないのだ。
それは今回発刊された、日本スキー教程2015年版の活用法についても言える。
新教程を固定された『雛形』とするか、自在な生き生きとしたものにするかは、それを利用する者にかかってくるわけである。
本来、市野氏は『雛形』といったことに批判的な方だったのではなかろうか?
前教程の『自然で楽なスキーのすすめ』の【すすめ】という言葉に、市野氏の技術普及に関する基本的な考え方が込められていると思う。
もし市野氏に罪があるとすれば、旧来の方法論を打ち破れなかったことにある。
もっともそれは市野氏一人の罪ではない。
教程というものは完全無欠なバイブルでないし、成りえないし、また成らなくても良いと思う。
あえて言えば、時にはインスパイヤーを狙った、アジテイターであっても良いのではないだろうか?
私は今回新たに発刊されたものも含め、スキー教程はアイデア集なのだと考えている。
だから、私は昔の教程もビデオも大事にとってあり、時々見返す。
古い滑りとか新しい滑りといったものはないと思う。
自分にあった、効率的な滑りがあるだけなのだ。
昔の教程もビデオも最新の教程もDVDも、スキー学会誌もスキージャーナルも、そのための大切なアイデア集なのだ。
またそれらは大切なものだとも言えるし、同時にそれはアイデア集に【過ぎない】ともいえる。
そのアイデアを滑りに生かすのは個々のスキーヤーなのだから。
つまり、自分の主人は自分であるという事である。
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