『ギョベクリ・テペとカイトサイト』 - 【神殿と狩猟】
- 2015/07/05
- 20:18

【ギョベクリ・テペ遺跡】
テレビを見ていたら、トルコで世界最古の神殿遺跡が発見されたといった内容の番組をやっていた。
興味を引かれて観てていたが、何と1万1500年前のに建造されたという。
これは神殿に限らず、最古の建造物ということになるだろう。
何せエジプトのギザのピラミッドが建てられたのが紀元前2500年頃だから、今からやく4500年前。
メソポタミアのジグラートが建造され始めたが紀元前3000年頃だから今から約5000年前。
イギリスのストーンヘンジだと紀元前2500年頃だからざっと4500年前ということになる。
昔、四大文明とはメソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明と習った。
つまり、これらが人類の文明の発祥の地ということだ。
それが、これらの四大文明の発祥から倍以上過去に遡って、トルコで神殿が建てられていたという。
自分が知っている常識と、かなりかけ離れている。
この神殿遺跡はトルコのあるアナトリア半島の南東部の『ギョベクリ・テペ』(Göbekli Tepe)というところから発掘されたという。
そこで、この神殿遺跡自体を『ギョベクリ・テペ』というようになった。
このギョベクリ・テペという言葉はトルコ語で『太鼓腹の丘』という意味で、つまりそういった地形の丘の上で発見されたという。
標高は約800mだという。
近くにシャンルウルファという大きな町があり、そこから北東に15Kmの地点だという。
ほとんどシリアとの国境である。
1960年代から何か遺跡があるとは分かっていたが、それ程重要視されていなかった。
それが1994年にドイツ考古学研究所のクラウス・シュミット博士が発掘にあたり、炭素同位元素測定法で年代を測定したところ1万1、500年前の遺跡という結果がでたという。
この炭素同位元素測定法という測定法だが、動植物の死後の体内のC14(炭素14)の半減期が約5、730年だという原理を用いて年代を測定する。
ここの遺跡本体は岩なので、その方法でもって年代は測定できない。
動植物といった有機物が必要なのだ。
そこで、遺跡と同じ地層から発見された木片などが、一般に利用される。
つまり、ここでは何か発見された有機物を含む物質のC14の量が初期値の1/4に減少していたということだろう。
そこで、この遺跡の年代はおよそ1万1、500年前ということになったのだろう。
しかし、1万1、500年前である。
殆どの有機物は腐って土に返ってしまうだろうから、よくそういったものが発見できたものである。
神殿遺跡とされたのは生活の跡が発見されなかったためだという。
炊事をした炉や焚火の跡も発見できなかった。
また標高も800mなので、水場まで数Kmあるという。
ただ、多くの野生動物の骨が発掘された。
食べ物を持ち込んで、何か宴会のようなものが催されていたのだろうか?
その建造物では円形、あるいは楕円形に1~2mの高さの石垣が何重かに積まれていた。
外側の石垣の直径は9~30m程度。
中の空間に入り込むための細く長い通路がある。
そして中央部に2組の岩板が4~5mの距離でもって向い合って立てられていた。
それは2枚の直方体の岩板がT字形に組み合わされて1組となっている。
この中央部の岩板はかなり大きい。
厚さが約40cmで下岩板の幅が約1.2m、高いもので高さが概ね5.5mといったところである。
重さとしては6tといったところか。
周囲の石垣にも円周に沿ってこれまたT字形の石板が10基近く、石垣に埋め込まれた形で配置されている。
これは中央部の岩板程大きくはないが、それでも高さ3~4m程度はある。
そして岩板にはヘビ、キツネ、イノシシ、鳥やライオンといった動物のレリーフが浮き彫りされている。
また中央の岩板には人間の手や下帯のようなものが彫り込まれている。
このようなものが、現在4基掘り出されている。
地中探知レーダーによる調査だと、300m四方にあと16基程が埋もれているという。
ところで、この構造物はこれを建造した古代人の世界観や宗教観を表しているのだろうが、それは一体どういったものだったのだろうか?
中央部の2組の岩板だが、これはこの世に存在する2つの性、つまり男と女、あるいは雄と雌を表しているのではないだろうか?
この二つのものの接合によって生命は生み出される。
すべての生命の始まりである。
そして、周囲の石垣やT字岩板はそれを取り巻く環境を表す。
それは社会だったり気候といった自然環境だったりする。
動物の場合だと群れということだろう。
そして、細く長い通路は産道である。
ここを通って生命は生み落される。
中央部の男女は男神と女神といっても良いのかもしれない。
これらの構造物は建造されてから1万1500年も経過しているのに、余り傷んでいない。
各レリーフの形はかなりはっきりとしている。
岩板の角も鋭角を保っている。
その事からこれらの構造物は建造後それ程期間をおかずに、埋設されたものと考えられるという。
なぜ建造したものを埋設したのか?
この埋設は『死』を意味するのではないだろうか?
つまり、この構造物は埋めるという行為を含めて『生と死』を表現している。
これが、これを建造した古代人の世界観であり宗教観だったのではないだろうか?
さて、そこでこの神殿が建造された1万1500年前という時期であるが、人類はまだ農耕には入っておらず、狩猟採取の段階だったという。
この神殿の建造にはかなりの人手が必要だっただろう。
例えば、6tの岩板を下に丸太を置いて、コロにして移動させるとしよう。
神殿は丘の上である。
かなりの負荷となるだろう。
そこで、例えば一人当たり50Kg分、ロープなどを利用して引き上げるとすれば、
6、000Kg÷50Kg=120
で120人の人手が必要となる。
この労働力を支える集落を考えてみると、力仕事に不向きな女性や子供や老人もいるだろう。
少なくとも200人程度の集落を想定しなければならないだろう。
ところで、200人の集落を狩猟採取でもって支えるこのができるのだろうか?
1920年代、英国空軍のパイロットが奇妙なものをヨルダンの地上に見出す。
それは砂漠に描かれた地上絵だった。
ヨルダンの地にもナスカのような地上絵?
それは空に上げる凧の形のようだった。
それでこれをカイトサイトと呼ぶようになった。
その後、凧だけではなく様々な形のものが発見される。
車輪のように見えるものもある。
そこで実際に地上に降り立ってその地上絵を調べてみると、石垣だった。
延々と石垣が連なり、線を描いていた。
もっとも、ナスカの地上絵と同じように、地上からは全体像が分からなかった。
さらにその石垣はかなり崩れていて、使用しなくなって相当の年数が経っているようであった。
地元の遊牧民のベドウィンはこの石垣を『老人の仕事』と呼んでいた。
これは何か?
これは長い間謎だった。
しかし最近その謎が解けたようである。
これは恐らく狩猟に使用した罠だったという。
この石垣の内側に動物の群れを追い込み、一網打尽にしたというのである。
『囲い込み猟の罠』である。
これだと群れを内側に追い込んだ後で入口部を塞げば、これはもう牧場である。
牧畜の初期形態である。
追い込んだ動物はガゼル、オーロックス(野生ウシ)、アジアノロバといったものだったようだ。
中に動物がいる限り、狩りに行かずともその動物を食べていればよい。
大人数の定住が可能である。
また時間の余裕ができる。
その時間の余裕を利用して神殿を作ったのだろう。
またこの狩猟はかなり組織立っておこなわなければならない。
組織立って動物の群れを絞り込みながら、石垣の柵に追い込まなければならない。
それにはリーダーが必要となるだろう。
また、石垣の柵の中には動物という『財』が発生する。
『階級制の誕生』である。
リーダーは集落をまとめるためにも、神殿が必要だったのかもしれない。
そこでリーダーの家系の由緒正しき神話が作成されたかもしれない。
このカイトサイトの遺構は西アジア全域に見られる。
これはトルコに隣接するシリアでも見られるという。
恐らく、ギョベクリ・テペの神殿を建造した古代人達もこの狩猟方法をとっていたのだろう。
そしてこの集団の流れが農耕技術を獲得し、チグリス・ユーフラテス河を南下しシュメール人となっていったのかもしれない。

【カイトサイト】
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