スフィンクスは彫刻だという。
石灰岩のギザの台地を削って、この形を掘り出したのだという。
しかし建造から数千年も経過し、かなり痛みが見られる。
石灰岩の地層にも、硬いところや柔らかい層があるのだろう。
その風化にも違いが見られ、水平に段々になっている。
風化には温度差や風や塩が影響しているとされている。
しかし、最近違う考え方をする人も出てきている。
次の画像を見てみよう。

これはスフィンクスを取り巻く岩の壁である。
ここで見られる凹み溝は水平方向だけではなく、垂直方向にも見られる。
こういった溝はごく日常生活でも見られ、ただ単純に地面を削って法を切った場合、雨によって浸食されこういった縦溝ができる。
法頭上部の流域から集まる水が法で流速を増し、こういった浸食を起こすのだ。
だから日本では法面を切る時には法の上部に排水溝を設けたり、法の表面に植生をしたり、コンクリートで覆ったりして浸食を避ける。
しかし、スフィンクスを取り巻く壁は岩である。
岩でも雨水による浸食をおこすのか?
スフィンクスを取り巻く壁は岩ではあるが石灰岩である。
石灰岩は雨水によって比較的簡単に浸食される。
そのようにして出来た地形としては、日本では秋吉台のカルスト台地が有名である。
雨水の浸食により、ドリーネといわれる穴がボコボコあいている。
この溶食過程を化学反応式で示すと次のようになる。
CaCO
3 + CO
2 + H
2O → Ca(HCO
3)
2反応の結果生じる炭酸水素カルシウムCa(HCO
3)
2はカルシウムイオンと炭酸水素イオンに分離した形でのみ存在し、水に溶けて流出する。
しかし、現在のギザの降雨量は年間20~30mm程度である。
それで、雨水浸食は起きるのか?
その雨量では起きないだろう。
多分水が地面を流れない。
それではどの時代にこのようにスフィンクスを取り巻く石灰岩の壁を浸食するような多量の雨が降ったのかが問題となる。
ある人はそれは1万年以上前だという。
となると、当然スフィンクスは1万年以上前に建造された事になる。
常識的には、1万年前の人類は石器時代で狩猟採取の段階とされる。
とてもスフィンクスのような巨大建造物を造れるとは思えない。
そこで超古代文明の登場となる。
つまり、今の人類には未知の高度な文明が超古代に存在したという考え方である。
それは何等かの原因で滅亡した。
しかし、オーパーツのようなものが時々発見され、それが証拠という事になる。
この場合スフィンクスがオーパーツとなる。
さてそこで一体多量の降雨があった時代はいつだったのかという事になる。
ギザのあるエジプトは北アフリカに位置する。
北アフリカには広く東西にサハラ砂漠が横たわる。
サハラ砂漠では、現在は降雨が殆どない。
だから砂漠なわけである。
それでは過去はどうだったのか?
ここでウィキペディアを引用する。
『サハラ一帯は、完新世(1万年前 - 現在)以降は湿潤と乾燥を繰り返して来た。
20,000年前から12,000年前はサハラ砂漠が最も拡大した時期で、現在のサヘル地帯のほとんどがサハラ砂漠に飲み込まれていた。
その後最終氷期の終焉とともにサハラは湿潤化を開始し、およそ8,000年前にもっとも湿潤な時期を迎えた。
この時期の砂漠はアトラス山脈直下の一部にまで縮小し、サハラのほとんどはサバンナやステップとなり、森林も誕生した。
7,500年前に一時乾燥化したがすぐに回復し、5,000年前までの期間は湿潤な気候が続いた。
その後徐々に乾燥化が始まり、以来現在に至るまでは乾燥した気候が続いている。』
この説明によると、サハラは8000年前が最も湿潤で降雨もあったということのようだ。
その後一時乾燥化したが、5000~7500年前頃はまた湿潤で降雨もあったようだ。
ということは、5000年程前にはギザ台地にもそれなりに雨が降っていたということになる。
アルジェリアの南部にナジェールのいうところがあり、そこに当時の岩絵が残っている。
多くの野生動物が住み、ということはそれを育む草原があり、さらに草原を支える降雨があったという事だろう。

【ナジェールの岩絵】
こういった事実から浸食に500年みて、およそ5500年前頃、紀元で表せば紀元前3500年頃にスフィンクスが建造されていれば、超古代文明を引き合いに出さなくても雨水浸食の説明が可能となる。
ここでもう一つ指摘しておくが、一日に20mmといったたいした降雨量でない場合でも、雨水対策をとっておかなければ浸食を起こす可能性もある。
例えば法に10cmの幅で上流域の水が流れ込むとする。
その流域を2m幅で長さ100mだとすれば、
20mm×2、000mm×100、000mm=4、000、000、000mm3で1日に4tもの水がその10cmの幅を流れる落ちる事になる。
対策をとっておかなければ、500年もかからずに、これで充分に浸食を起こすであろう。
さて、そこで紀元前3500年といっても、ギザの3大ピラミッドが建造されたとされた時期よりさらに1000年程遡る。
その時代にスフィンクスを建造するような技術や労働力があったか?
私は有ったと思う。
というのはすでにシュメール人がエジプトに入植し、先住の民を支配下におき灌漑農業を開始していたと考えるからである。
シュメール人がメソポタミアで灌漑農業を始めたのは、およそ紀元前4500年頃と考えられている。
紀元前3500年にまだ1000年の余裕がある。
問題は本当にエジプトにシュメール人がきていたかどうかである。
ここで2枚の画像を見てみよう。
左側は、ナルメル・パレットと呼ばれるものの片面である。
ナルメルとは、エジプトを始めて統一した王と言われている。
この絵はその際のものとされる。
紀元前3100年頃と言われている。
右側はマラッスというシュメールの守護神である。
人面有翼牡牛像と言われる。
城門に対で置かれた。
日本の狛犬のルーツともされる。
シュメールの守護神マラッスの身体は牡牛である。
それに羽が生えている。
顔には顎鬚が生え、3対の角の高い冠をかぶっている。
ここで、ナルメル王を見てみよう。
身体は当然人間だが、腰の後ろにヒモのようなものを垂らしている。
これは牛の尻尾なのだ。
そして、これも当然羽は生えていないが、鳥が右上に描かれている。
顔には顎髭が生えており、頭には高い冠をかぶっている。
その冠には角はないが、上には角の生えた2頭の雄牛の顔が描かれている。
この2つの物は描かれているものが非常に共通している。
とても偶然とは思えない。
これは、ナルメル王がマラッスを真似ているのだ。
一体化し、自己も神になっているのだ。
この事から、エジプト王朝はシュメール人と強く結びついていたことが分かる。
シュメール人はエジプトに移住し、灌漑農業を伝えた。
そして同時に初期の王朝を形成したのだろう。
シュメール人は農業技術だけではなく土木、建築技術にも優れていた。
メソポタミアではジグラッドという大建造物を造り上げている。
その技術力をもって、スフィンクスやピラミッドの建造もしたのだろう。

【ジグラッド】
このように考えてくれば、スフィンクスの雨水の浸食跡の説明に、別に超古代文明を想定しなくても良い。
スフィンクス神殿の石材がスフィンク上部の石灰岩と認められるから、スフィンクスは神殿と同時に建造したという指摘もあるが、これは正確ではないだろう。
これは、スフィンクスの上部と同一の地層から採石されたという事であろう。
同一地層は当然のことだが、広く分布する。
結論として、紀元前3500年頃にエジプトに移住してきたシュメール人によってスフィンクスは建造され、かつ王朝も形成されたのだろうと私は考える。
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