夕張マウントレースイにスキーに出かけた。
途中、栗山町で『坂本九思い出記念館』の案内板が目に入った。
いつも通っている道で、いつも見ているはずの看板が、その日に限ってなぜか気になった。
それで帰りに記念館に寄った。
スキーウェアのまま記念館に入って、ウロウロと中を見てまわった。
九ちゃんはかなりのスポーツ好きだったようだ。
ニセコで家族でスキーを楽しんだ時の写真も展示されていた。
坂本九は日航機墜落事故で亡くなった。
事故は1985年(昭和62年)8月12日起こったので、もう31年も経ったことになる。
この事故には不可解なことが数多くある。
事故の原因は圧力隔壁の破損とされた。
圧力隔壁とは航空機の前後部で機内と外気を遮断する壁である。
日航機の場合は後部であった。
事故時、日航機はおよそ高度2万4000フィート(7200メートル)を飛行していたとされる。
とすると、外気圧は0.4気圧程となる。
一般に航空機内の気圧は0.8気圧に保たれる。
そうすると、その気圧差は0.4気圧となる。
この圧力差が生み出す力がどのくらいかというと、約4t/m2となる。
1m四方で4tというかなり大きな力が働く。
もし、圧力隔壁が破損したのなら、機内の空気は一挙に外部に吸い出され、突風が吹抜けるはずである。
事故調査委員会の見解によれば、その風により垂直尾翼が吹き飛ばされたとされる。
垂直尾翼を吹き飛ばすような突風である。
凄まじいはずである。
しかし、非番のCAで生存者だった落合由美さんの証言だと、そのような現象は機内で起こっていない。
従って、圧力隔壁は破損していないはずである。
圧力隔壁の破損は、墜落の原因ではない。
何か変である。
誰かによって、何かの真実が隠されている。
帰宅して、この事故の資料をネットで見直してみた。
そうすると、このような写真が目にとまった。

日航機墜落現場で撮られた写真である。
小平 尚典(こひら なおのり)というカメラマンが撮ったという。
10歳前後とみられる短髪の男の子が自衛隊員に抱えられている。
見たところ目立った外傷はない。
まるで生きているかのようである。
しかし、この事故で助かったのは4名の女性だけとされる。
落合由美(26)、川上慶子(12)、吉崎博子(34)、吉崎美紀子(8)の4名である。【括弧内の数字は当時の年齢】
従って、この男の子は死んでいたことになる。
しかし、靴の脱げた左足首に何かヒラヒラしたものが見える。
気になったので、クローズアップしてみた。
下の写真である。

何か細長い布のようである。
細長い布・・・・・。
これは包帯である。
この男の子の左足首に包帯が巻かれている。
ひどく簡易的な応急処置だが、この子は治療を受けている。
死体に包帯を巻くはずがない。
という事は、この子は生きていた・・・。
このような事の発表も報道も当時まったくなかった。
この子が誰なのか気になり、乗客名簿を調べてみた。
乗員乗客数は524名だったが、乗員が15名いたので、乗客数としては509名となる。
その内小中学生は48名、
さらにその内男の子は18名。
さらに短髪で10歳前後の男の子に絞り込むと3名となった。
美谷島健君 (9)、吉岡 秀倫君(8)、吉崎充芳君(9)の3名である。
この中でムチムチした体つきから、私は吉岡 秀倫君がこの写真の主ではないかと思う。
この子である。
吉岡 秀倫『ひでのり』と読むのだろうか?
大坂に住んでいた8歳の男の子である。
もう少し、乗客名簿を調べてみると、このような名前も載っていた。
吉岡 秀次(59)、吉岡 美代子(55)、吉岡 佐幸(7)。
吉岡家は一家4人で日航機に乗ったようである。
秀倫の『秀』はお父さんの名前の一字をもらったものだろう。
そして両親は事故で亡くなってしまい、この写真について追及する人は誰もいなくなってしまった・・・。
このように、日航機墜落事故には様々な不可解な事がつきまとう。
これは真実を隠したことにより、色々なところで辻褄が合わなくなってきているせいなのだろう。
どうも私はこの事を知らせるようにと、誰かに『坂本九思い出記念館』に呼ばれたような気もする。
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