猪谷六合雄(くにお)氏ー『貧乏な贅沢者』
- 2014/01/31
- 20:12

【猪谷六合雄氏、特製露天風呂入浴中】
先日スキーの講習会に参加した。
その時一人の人とリフトで乗り合わせた。
東京都スキー連盟所属の方であった。
私が東京都連では昨年から猪谷千春さんが会長さんですね、と水を向けた。
1956年のコルティナ・ダンペッツォ冬季オリンピック回転の銀メダリストの猪谷千春氏である。
その方は楽しそうに千春氏の人と成りを話してくれた。
千春氏の話をざっとして、私はその方に千春氏のお父様の六合雄氏も面白い方だったようですよと話した。
そして『雪に生きる』という六合雄氏の回想録があることを伝えた。
その方が読んでみようかな、とおっしゃったところでリフトでの数分の会話は終わった。
猪谷六合雄氏は大変な贅沢者であった。
スキーを趣味とし、全国に自分所有のロッジをかまえた。
そのロッジはすべてゲレンドのまん前の一番便利な場所に位置していた。
そしてジャンプ・シャンツェを幾つも所有した。
食べ物は自然食材を調達した。
晩年にはキャンピングカーを運転し全国を巡った。
なんと贅沢な方だろう。
どんなにお金持ちだったのかと思うだろう。
ところが本当のところ貧乏であった・・・。
どういうことか?
猪谷六合雄氏は貧乏に対する対処法を二つ挙げている。
一つはお金を稼ぐこと。
お金を稼げば貧乏でなくなる。
二つ目の方法はお金が無くても平気になること。
これははお金が無くても生きていけるライフスタイルを見つけるということだろう。
普通の人は1つ目の方法を選択する。
選択するというか、それしか考えつかない。
しかし六合雄氏は二つ目の方法をとった。
お金は稼がない。
しかしお金は使わない。
それではなぜ各地のゲレンデのまん前にロッジをかまえることができたのか?
それは全部自分で造ったからである。
全国を放浪し気に入った土地を見つける。
そしてゲレンデに適した斜面を見つける。
そうしたらその斜面の下にロッジを自分で設計し、自分で建てた。
次にデレンデを造る。
邪魔な樹木を伐採する。
草を刈る。
岩をどける。
あるいは砕く。
シャンツェも自分で設計し自分で造った。
かなり本格的なものまで。
毛糸の防寒用靴下なども編んだ。
時にはスキー板やその金具までも作った。
そして自家菜園や海から食材を調達した。
この方法だとお金は大してかからない。
雨が降ればお気に入りのレコードを聴き、雪が降ればそこでスキーを楽しんだ。
そこら辺の事情を猪谷氏は御自身で書かれている。
『ある何度目かの国勢調査で、今度は無職では通らないそうだ、という話だったが、だれが考えてもやはり無職なので・・・。
事実私たちは、スキーが本職だと思っているのだが、スキーを作って売っているわけではないし、スキーを教えて報酬を貰うわけでもないから、スキー業ではないのだという。
毎日木を切ったり、土方をしたりして、スキー場を作ってはいるが、それも頼まれたものでもなく、したがって給料を貰うわけでもないから、スキー場開拓業でもない。
いつも写真を撮ってはいるし、戦地の倅に家族の写真を送ってやりたいからとか、嫁を貰ったとか、赤ん坊が生まれたとかいって、一年にはかなりの人の写真を写す。
だがこれも、料金を貰うわけでもないから写真業でもない。
何百坪かのくらいの山を開墾して、ジャガ芋や、菜っぱを作ってはいるが、これではまだ百姓といえる資格はない。
それくらいで、もうほかにはない。
いや細かくいえばまだあるかも知れない。
大工もすれば編物もする。
お針もするし石屋や樵の真似もする。
でも業の役に立ちそうなものは何一つない。
それよりも、私たちの貧乏さ加減を憐れんでだろうが、先輩やスキー仲間の友人たちには、至る所で随分世話にもなるし、何か貰ったりすることもある。
しかし、世話になり業だの、貰い業などでは、国勢調査の分類のうちには入れないだろう。』
こういった普通の日本人には発想できない生き方を、猪谷六合雄氏はどこから学んだのだろうか?
私は若い頃の体験に基づいているのではないかと考えている。
実は猪谷氏は28~30歳の頃放浪してジャワ島で暮らしていたことがあった。
多分その頃のジャワ島はまだ貨幣経済がそれ程行き渡っていなかったのではなかろうか?
お金を使用しなくても人は生きていた。
むしろ生き々々と自然と向き合って暮らしていた。
そこで猪谷氏はこういった生活の仕方もあるということを学んだのではないだろうか?
猪谷氏は千島の国後島での最初のロッジをガソリンランプの爆発事故で焼失している。
その際自分で作成したジャワ島の地図やスケッチを失った。
その事をしきりに悔しがっている。
しかし国後島での、あるいは日本でのその後の生活でジャワ島の地図やスケッチが必要であろうか?
それは多分猪谷氏の宝物であったのだろう。
自分の生き方の指針の象徴でもあったのだろう。
そんな猪谷氏のもとに回想録の依頼がくる。
それが『雪に生きる』であった。
しかしそれを猪谷氏が書き上げたのは1943年、戦時真っ只中であった。
『お国のために死ぬ』時代である。
それが『雪に生きる』でもあるまい、と猪谷氏本人も思ったようである。
ところがそれが出版の運びとなり、さらに推薦図書となったのである。
当時の文部省のお墨付きをもらった。
そこらの経緯について猪谷氏はこのように述べている。
『・・・あの放浪生活が、もしも金持ちの道楽なら、今時この戦争最中に推薦どころではない、という意見を述べていた人があったという。
それがその後、ともかくも推薦図書になったところをみると、どうして知ったのか、金持ちの道楽ではなく、本当は貧乏人の道楽だったということがわかったものと思う。』
『雪に生きる』は当時のベストセラーとなる。
戦争の閉塞感の中で人々が救いを求めたのだろうか?
この推薦図書の決定はもしかすると、猪谷氏と皇族とのつながりも影響したのかもしれない。
猪谷氏は自分でシャンツェを設計して自分で造って自分で飛んでいた。
そしてついにはその飛距離は40mを越えた。
この頃には役所もシャンツェの建造に財政的な援助をしてくれるようになったようである。
そのシャンツェに秩父宮、高松宮両殿下がいらっしゃり、台覧試合が行われることになった。
来日中のノルウェーの選手団も参加することになった。
1929年のことである。
『いよいよ今日は、両殿下がお登りになられるという日の朝、飛び起きて窓を開けてみたら、空には雲の子一つなく、地蔵岳の頂に美しい朝日が差していた。
一同前橋道の峠の上までお迎えに出て、お元気な両殿下の英姿を拝し、予定の時間に第五シャンツェへご案内申し上げた。
・・・ノルウェーの選手が二人、麻生、秋野、伴の三氏と私で四人、合わせてたった六人で、飛ぶ人の数こそ少なかったが、みんな張りのあるいいジャムプをした。・・・
ルードたちは五十メートルを越し、私たちも五十メートルに迫った。
それはレコードから見ても、今までの日本にかつて前例のないジャムプだった。・・・
私たちのジャムプが終わってしまうと、秩父宮殿下は、その朝ヘルセットが献上したばかりの、まだ御足にお馴染みにならないスキーをお穿きになられて、あの大きなランディングバーンの上にお立ち遊ばされた。
お付きの方が心配して駆け出して来て何事か申し上げようとした時には、もう、飛ぶような速さで着陸斜面を滑り始めていらせられた。
なお、高松宮様もそのすぐあとへお続きになって、バーンの途中からお滑べり遊ばされた。
お二人方ともお見事な直滑降でアウトランへ出られ、逆斜面へ滑り上って悠々とお止まりになられた時は、一同驚いて感嘆申しあげた。』
天皇家と猪谷氏のつながりは戦後も続き、今の天皇の皇太子時代のスキーコーチもされていた。
その際、猪谷氏を知る上で重要なもう一つのエピソードがある。
戦後のことであるが、当時の皇太子が志賀でのスキー旅行からお帰りになられるという朝。
猪谷氏は風呂に入った。
お見送りに際し身を清めようとしたようだ。
湯船に先客がいた。
しかしちょっと様子がおかしい。
浮いていた・・・。
心臓麻痺かなにかで死んでいたのである。
猪谷氏はその遺体を押しづらし、自分の入るスペースをつくり、その湯船に悠然とつかった。
すぐ脇には遺体がプカプカ浮いていた。
そして皇太子がお帰りになられたタイミングをみはかり湯から上がり、仲居にその事を伝えたとのことである。
猪谷氏は雪山で多くの凍死者を見てきている。
そのことの感想を書いている。
『・・・その場にかかわりのない人たちが考えると、行き倒れとか遭難とかいって、何かとても陰惨な最期だったかのように思われがちだが、事実は意外にも明るく安穏で、美しくさえある場合もありうると思う。
ところでなぜそんなことが断定出来るかといえば、かくいう私自身が雪の道で昇天する直前まで行った経験が一度ならずあるからである。』
充実して生きるとは、死を見詰めることである。
死を見詰めるとは、生を見詰めることである。
猪谷六合雄氏は、生死を越えた境地にいたのかもしれない。

【猪谷六合雄氏、家庭菜園耕作中】
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猪谷六合雄さんの時代はキャンピングカーという言葉もなかったようです。
概念自体を六合雄さんが作ったのですね。
ちょっと忘れてしまいましたが、何か車検を取る時大変だったようです。
- 2014/07/20(16:40)
- 消前烈火