知里幸恵とアイヌ語と縄文語
- 2019/06/25
- 13:47

【知里幸恵(ちりゆきえ)】
昨日、登別での仕事が早く終わったので、いつも高速で帰るところを一般国道を利用した。
そうしたところ、『知里幸恵銀のしずく記念館』という看板が目に入った。
知里幸恵については、実のところアイヌで何か偉大な事をした人くらいの知識しかなかったのだが、目に入ったというのも何かの縁かと思い行ってみた。
記念館はそんなに大きくない、中2階のある平屋の建物だった。
中に入ると、係の方が親切に色々説明して下さった。
その方によると、知里幸恵はアイヌの口伝ユーカラを初めて日本語に翻訳して出版したのだという。
1923年(大正12年)のことである。
言語学者の金田一京助の協力のもとだったようだ。
この時は金田一はまだ東京帝大の講師だった。
アイヌ語の用法に関しては、知里幸恵は金田一京助の先生だった。
しかし、アイヌ語をどうとらえるかという根本においては金田一は幸恵の先生だった。
知里幸恵は自身はアイヌではあったが、それがどういう意味をもつのか自分では判断がつかなかった。
教師をはじめ、回りの大人や世の中は同化政策の渦に中に飲み込まれていた。
アイヌというものを消滅されていくのが、幸せにつながっていくのかもしれない。
しかし、旭川住むにようになった幸恵の前に突然現れた金田一京助はそうではないと熱弁した。
アイヌは決して劣等ではなく偉大な民族であり、その文化も素晴らしいものだ。
アイヌ語をはじめその文化は継承されなければならない。
その言葉に幸恵は涙を溜めた。
そして、その文化の継承を自分の『使命』とした。
10代において、アイヌ文化の継承を自分の『使命』とした。
そして『アイヌ神謡集』を完成させたまさにその日、金田一宅において19歳の彼女はこの世を去る。
持病の心臓病が原因だった。
『使命』をまっとうし、燃え尽きた。
そして翌年の1923年に『アイヌ神謡集』は出版された。
私はアイヌ語を単にアイヌという民族の言葉としてはとらえてはいない。
それはアイヌというものが孤立した民族だとは思っていないからである。
結論から言うと、アイヌとは縄文人の血を濃く受け継ぐ人々である。
縄文人の中に北方民族の血が幾分か混入したのである。
いわゆる和人と強くつながる。
従って、アイヌ語は縄文語と深くつながっている。
そういった前提で、私は今までもいくつかアイヌ語にまつわる話を書いてきた。
『四万十川』のアイヌ語説をめぐって
オマン○の語源についての一考察
『ヘッ○』の語源と言語の持つ情感
ちょっと紳士淑女からは眉をひそめられる内容のものもある。
しかし、何か私達が日常的に使っている言葉の中にも縄文語=アイヌ語が潜んでいるような気がする。
そして心の中にも・・・。

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